今回の職人は私の母の貝澤雪子です。attusアットゥシ織りを50年以上やっている。母はとても貧しく育ち、小学は正味半分くらいしか通ってない。中学は大好きな本を買ってあげるから、学校へは行きたくない。と、先生に話すよう、両親に言われ、学校へは行かず、働いた。働いたお金は両親に渡し、attusの糸作りをバイトにし、それを自分の小遣いにしたそうだ。一つ糸玉にすると300円もらえたようです。当時の二風谷はattus織りをする人がたくさんいた、昭和20年代から30年代にかけての時代の事。その後結婚し、attus織りの伝承者である、貝澤ハギにattus織りを習い現在に繋いでいる。最盛期の頃はattusが飛ぶように売れ、私の父も糸作りや織りも、男でもやったと母は話している。母から子へ。何とか残したくて、毎日毎日、母は、きちんとマスターしてね。これはね、こうなんだよ。あーなんだよ。と教えてくれている。親は死ぬまで親という言葉通り、一児の母の私も、いつまでも可愛い?娘なのでしょう。しかし、
「待っててね。」と、何年も待たせている娘なのでした。死ぬまで勉強が口癖の母は、昨日、札幌へ出掛けた車の中にも
糸を持込むのです。そんな母を尊敬しています。しかし、真似はなかなかできないでしょう。
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